ブッダの教えに少し近付けた気がした話

 
yentaのデザイナーをしています、平根です。
「リングフィットがあるからジムに行かなくても大丈夫」と思っていたのですが、気づいたらもう1ヶ月くらいリングフィットを起動していません。(というアイスブレイク)
 
 
さて、本題に入ります。
実は、自分は昔から、議論というものが苦手なタイプでした。
 
アトラエに入社する前の自分の議論に対する姿勢は、以下の通り。
 
「自分の言ったことが否定されるのは怖いし、間違ったことを言って場が白けたら嫌だし、口下手だから上手く説明できそうにない。
反対意見を伝えたら相手を不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。。いや、そもそも "反対だ" と思った自分の意見の方が違うのかもしれないし。。。
賛成でまとまりそうだけど、ああ、あの人が不服そうな気がする...賛成の方に持っていくのはやめて様子を見よう…。」
 
はい。非常にめんどくさいですね。
 
しかし新卒入社後、アトラエで熱い議論の波に揉まれ、社会人6年目ともなった今、流石に当時よりは数段階段を登った感覚があるので、それについて自分のための備忘も兼ねて書き残しておこうと思います。
 

気付き・自我の芽生え

 
まず、入社後比較的早いタイミングで、変に周囲の顔色を伺っていると、「成果に向かっているチームなのだから、衝突することよりも、気付いていることを言わないことの方が悪だ」というお言葉を先輩にいただき、それが個人的には目から鱗!!という感じでめちゃくちゃ刺さっていました。
 
それでも、人の反応を気にしてしまう癖を簡単に治すことはできず、頭ではわかってるし意識はしてるんだけど、如何とも…な状態に。
その後暫くは、なかなかうまく行動に移せないながらも色々と試行錯誤をしていました。
 
『嫌われる勇気』という本を読んで、
「自分以外の人の反応や行動を変えることはできないのだから、そこに関しては思い悩むな。自分がどう行動するかだけ考えろ。」
という教えに深く納得したり、
 
意識を高めて議論に臨み続けていたら、ある時ふと
「あれ? いま私、空気を読もうとするあまり、自分の意見とは関係のない発言をしてしまっていたな???(←マジで無意識だった)」
ということを自覚する瞬間があったりと、
 
様々なことを経験しながら、徐々に「自分の意見は何なのか」を理解して発言することができるようになっていきました。
 

人と意見を戦わせることから逃げた時期

 
何年目のことかハッキリとは覚えていませんが、「意見することを怖がらない」「自分の意見と関係ないことを言わない」そういったことができるようになってきて、思ったことをなるべく口にしていた時期がありました。頑張って、否定?もしていました。(私はこっちの方がいいと思う、的な。)
 
議論というものをしていると、様々な視点から、様々な意見が出てきます。
自分と全く同じ人間はこの世に存在しないので、議論することとは、異なる意見や視点を持つ人と意見を戦わせることに等しいなと思います。
 
違いを認めることは簡単ですが、そこはビジネスに関わる意思決定。議論を始めたからには、一つの答えに収束させなければなりません。
元来衝突が苦手な私は、「折れない」ことが苦手でした。しかも、議論においては、折れない理由をロジカルに説明する必要がある。
議論をすればするほど時間は失われ、自分が発言するほど、自分が疲弊しました。
めちゃくちゃ疲れるし、だんだんしんどくなってきました。
 
「...。」

「折れよう。」

「もうとにかく折れよう。」
 
気付けば、最初よりも圧倒的に酷い状態 ———— 議論から逃げている自分がいました。
(今だから言える、本当にあった最低な話です…)
 
 

ありのままの自分を認めたら、しなやかになれた

 
議論から逃げ、自分に自信が持てず、それなのに年次は上がっていき先輩になってしまう…
そんな当時、苦しみを抱えながら、自分の心と向き合うための本などをたまに読んでいました。
 
中でも、元々漠然と「いいな…」と思っていた仏教的な思想は、実用的ですごく自分にフィットしたように思います。(個人的にかなりライトな解釈を加えちゃってますが。)
 
戦う気力を失い、惨めな気持ちになって凹んでいましたが、本を読みつつ、惨めな気持ちでいることにも飽きてきたある時。
「別に虚勢張らなくていいじゃん」「ありのままの自分でいて、なんか困ることある?」「できないことはこれからできるようになってやんよ!」
と開き直ったら、なんだか色々なことに気付くことができました。
 
私が心を乱していた原因は、きっと「できないところを見せてはいけない」「負けたくない」といった自尊心からくる見栄と、「自分の考えや意見を正解だと思いたい」慢心にありました。
 
でも、そんなものには何の意味もないのです。
今目の前にある、確かなことだけに集中すべきで、あらゆる事象に余計な解釈を加えて勝手に心を乱していたのは、ほかでもない自分自身であることに気づきました。
 

 
以下は、仏教思想をベースにして考えた際の、私の個人的な見解になりますが、
 
議論の際に確かなことは、「自分の意見と、自分以外の人の意見がここに存在している」ということだけです。
 
議論の場には、「自分がこう思っている」という事実と「相手がこう思っている」という事実があるだけで、「正解」というものはこの世に存在していない
という捉え方に、私は行き着いたわけです。
 
上記のように捉えると、相手の意見が自分と食い違っていたとしても、「相手の視点や解釈を加味すると、今相手にとってはそれが正解なのだ」という事実をそのまま受け入れることができます。
そこから、「相手にとっては正解なのだけれど、自分にとって正解と感じないのはなぜなのか?」を冷静に考えることもできます。(何言ってるかわからなかったらごめんなさいw)
 
※便宜上「正解」という言葉を使っていますが、「正解=良さそうだと感じるもの」くらいのニュアンスで受け取って欲しいです。
 
 
ポイントとして、議論を行う上では
 
  • 完璧な正解なんてこの世には存在しない。
  • 「自分にとっての正解」は存在している。
 
の2点のバランスが大切で、
前者が弱いと独善的に、後者が弱いと意思のない人になってしまうのかな、と思います。
 
自分が思う「正解」を疑ってかかるのと同時に、それでも自分にとってはこれが「正解」なんだと、誰よりも自分が認めてあげること。
この2点を良いバランスで保つことができていれば、健全な議論ができそうだと私は考えました。
 
人が口にする意見に間違いなんて存在しない。
そして「自分がこう思っている」というのもまた事実なのだから、怖がらなくたっていい。
自分が自分を揺るぎなく許している感覚さえあれば、周りにどんな反応をされても怖くはない。(事実そう思ったんだからしょうがないじゃん!という。)
 
「波風立てたくて言ったわけではないということがちゃんと後から伝えられればいくらでも修正可能だろう」という、チームメンバーに対する安心感も相まって、少しずつ、ありのままの自分で議論できるようになってきています。
 

まだまだ道半ば

 
色々な試行錯誤を経て、上記のような、自分にフィットする考え方にたどり着いたことが、自分にとって一つの転換点であり、以前よりは少し前に進めたのかなと感じる部分だったので、今回の題材としてみました。
 
とはいえまだまだ修行中で、意識しながら上記のように在ろうとしている段階です。
 
引き続き、何事にも動じない、穏やかな凪のような人になれるよう、励んでいきたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。

ABOUTこの記事をかいた人

平根

2015年卒新卒入社でデザイナーをしている平根です。 教育学部英語英文学科出身ですが、未経験でデザイナーになり、サービス立ち上げ時からずっとyentaチームにいます。 少年漫画と音楽とビールをこよなく愛します。