Wevoxを通じて変えていきたいこと

本日はWevoxにてセミナー講師などを行っている、平井がお送りします。

今回の話は、日々自分がエンゲージメントという題材をもとに、自分がクライアントの方に感じていることでもあり、合わせて、自分にも言い聞かせていることでもあり、同時にこのブログを読んでくれている皆さんにも考えてほしいことです。

これを読んだ皆さんはどのように感じるでしょうか?

知れば知るほど、変わってほしいという気持ち

これまで年間に、150近くの セミナーを行い、多くの企業様のエンゲージメントに関する悩み、会社や仕事に対する悩み、組織風土に関する問題点を聞いてきた。 そして、多くの会社には、非常に似たような問題を抱えているということを実感してきている。 それは、どの会社も主体的な人が欲しいと言いながら、それとは逆効果の行動をしてしまっているということだ。

エンゲージメントを上げたいと言う会社様の多くは、「主体性のある社員を作っていきたい」と言う思いを持っているが、 主体性に対する考え方が曖昧であったり、時代に応じた取り組みができていないことによって、それが達成されないことがなんとも多い。

やっぱり僕は、日本と言う国が好きだし、お世話になった人たちの為にも、働いている人たちが元気になっている姿を作り上げたいと思っている。 こんなことを言うと、暑苦しい奴だ(笑)と言われるかもしれないが、 逆に、周りの人たちがみんなショボーンとしている世界を、本当に望んでいる人なんかいないと思う。 むしろみんなそれを望んでいるのに、それができないことを諦め、 理想を掲げる人を笑うことで、何とか自分を慰めているような気もする。

だからこそやっぱり、気づいていることを自分を伝えたいと日々思うのだ。

主体性が都合よく使われる

上に書いたように、「主体性」と言う言葉は多くのクライアントの中で話が出てくるが、そもそもこの言葉自体が非常に曖昧に使われている。 まずは、この曖昧さを取り除く必要がある。

その主体性は、会社にとって都合の良い人間とどう違うのか?

主体性とは、「会社のために動きなさい」というメッセージ?

「会社のために休みなく一生懸命働いて、 貢献しているなんて、君はなんて主体的なんだ!」「 なんて言われたことばっかりやるんだ。ちゃんと 会社のことを考えて、主体的に自分で考えろ。」 と言うような言葉を、聞いてこれを読んでいる皆さんはどう思うだろうか。 実はこのセリフは、私がいろいろなクライアント様とお話をする中で、 よく聞いており、違和感を感じているものだ。

もしこれを違和感がないと感じるのであれば、このような問いを自分に投げかけてみるといいと思う。 「会社のために尽くすことが主体的ですか?」

この質問を投げかけたとき、「いや、それはちょっと違うんだが…」 と言う人は多いが、そう言いながら上のようなセリフを言ってしまっている人が多いのだ。

最近はこのような主体性を、「会社に都合の良い主体性」と呼ぶことにしている。

今はそれが、不信を生む

会社としては、そういう人がほしいのかもしれないが、 実際にこれを受け取っている社員からすると、かなり違和感を感じるはずだ。それは、過去と現在では会社に対する考え方が全く異なるからだと思う。

約束のできない未来

最近では、上場企業の中でも、早期退職優遇制度といった名前を使いながら、一定の年齢になった方に退職をおすすめする会社も増えてきている。 また、年金の受給年齢はどんどん上がっており、その金額は下がっていることを社員が気づいているし、ビジネスモデルが大きく変わっていく中で、 今の会社の事業がどれぐらいそのまま残っていくのかは未知数だと感じている社員のほうが社会的には多いだろう。 日本の全体が、これからGDPがどんどん伸びて、アメリカや中国などといった経済的に勢いのある国と肩を並べるイメージが持てている人の方が、正直少ないだろう。

これをいいとか悪いとか言うつもりはなく、事実として受け入れる必要がある。

個人から見れば、体(てい)の良い使いっぱしり

そういう考え方を持っている社員からすれば、「会社のために全てを尽くす」と言うニュアンスが感じられる言葉には、不信感を感じるはずだ。 言ってみれば、人生全体をかけて、自分をどこかで使いっ走りにしてしまう、使い捨ててしまう、 そんなこと言う会社のことが信じられなくなる。

もちろん、大人だから、「主体的に会社に貢献しろ」と言われたとして、面と向かって「嫌です」とは言わないだろう笑。

しかし、 そこには、建前と本音を作らざるを得ない構造になっていると感じる。

主体性の本当の意味に立ち返る

本当に主体的になってほしいと思うのであればあるほど、「 主体性」の意味についてちゃんと理解をする必要がある。 もちろん、主体的と言う言葉がそもそも講義の意味で使われているのは間違いないので、ここでは、ある意味、現代における主体性と言ってもいいかもしれない。

主体性とは、自分の人生に責任を持つこと

「主体性とは、自分の人生の責任を引き受けることも意味する」と書いているのは、かの有名な7つの習慣だ。実はこれが 現代における主体性を考える上で、改めてしっかりと覚えておく主体性の意味だと思う。

現在のように、VUCAな時代と言われており、 ある意味会社や社会が自分の人生を保証してくれない、自分の人生の責任を誰かがとってくれない、そういう社会においては、「自分の人生の最後の砦は、自分である」と言うことを リアルに捉えておく必要がある。

ちなみに、責任を引き受けるとは、自分で選択をし、その選択の結果を自分事として引き受けることを意味する。

つまり、厳しく言えば、あなたが今そういう状態にあるのは、会社のせいでも社会のせいでも親のせいではなくあなたの選択の結果であると言うことだ。 あー、なんと厳しい笑。

でも、よくよく考えれば、職業の自由は憲法で保障されており、結婚も自分の自由意志で決められ、離職したり、別の仕事を選択する 自由がある中で、あなたがそこにとどまっているのは、他でもない自分が決めていることである、というのはまさにその通りかもしれない。

(もちろん、社会的に恵まれない環境のせいで、どうしても今の状況になっている人がいることを否定はしない。 ただ、ここでは話を簡単にするためには、そこに関してはあえて触れない。)

自分がありたい姿を考えて、それの実現のために動くこと

これを言い換えれば、 自分のありたい姿、自分のウェルビーイングをよく考え、どれぐらい働きたいのか、どんな仕事をしたいのか、誰と一緒にいるのが自分にとって心地が良いのか、そういった物に対して正直になること。そしてその幸せの実現のために、ちゃんと行動することになる。

最近は、エンゲージメントと言う言葉と同時にウェルビーイングと言う言葉を聞くようになっているが、それはまさに同じような背景があると言うことだ。

包み隠さず言えば、それは、場合によっては会社で出世することをもちろん意味しない。場合によっては、週に3日だけ働いて、残りは自分が好きなように田舎で暮らすなんてこともあり得るわけだ。 リモートワークになり、通勤時間が浮いた分、仕事をするのではなく、自分の趣味や、家族のために時間を使う自由があり、それを自分の幸せのために利用しても構わない、むしろそれを自分でしっかりコントロールすることが、主体的であると言うことになる。

自分勝手、自己中心的とどう違うのか?

この話を、セミナーでしたときに返ってくるリアクションとしては1つは「厳しい」と言うもの笑。しかしこれに関しては、考えてみればそうだよなと言うことで、ロジック的には間違ってないことを理解はしてくれる。しかしもう一つのリアクションは、「 それは自分勝手ではないか。協調性に欠けるのではないか。」といった反発だ。

自分勝手であり自己中心的であると言うことと、上記で書いている 主体的であることには、大きな違いがある。

自分勝手、自己中心的とは、相手の存在がないこと

自分勝手、自己中心的である状態とは、基本的に自分のことしか考えておらず、社会の中に存在している相手、例えば会社の同僚や、友人や、家族といった存在のことを無視している状態がわかりやすいだろう。 この場合、相手の考えや、相手の価値観、会社で進めている方向性や、チームの中での合意といったものを、ないがしろにし、それよりも自分の利益を優先するような行動をとる

主体的な人は、相手を理解している

一方で、主体的な人は、しっかりと相手の存在を尊重している。自分の価値観を大切にすると同時に、それと同様に他の人たちが持っている価値観を理解し、 それらとの共存をしていくことが結果的には自分の幸せや自分の成功につながると言うことを理解をしている。自分の人生に責任を取ろうと思った時、周りにいる人たちのことを 無視しながらすることがポジティブな結果を生み出さないと言うことをちゃんとわかっているのだ。

その美学が自分を苦しめ、会社を苦しめる

「自分のことを考えるなんて、なんて協調性のない!」は良い未来を作るのか?

日本の中には、自分のことを優先すると言う言葉に対する過剰な反応もあるような気がしている。その裏には、相手のことを考えない、協調性がないといった前提が含まれているのだと感じる。 しかしこの考えは、協調性を過度に求めると言う点で、そもそも現代のような多様な社会には フィットしないのではないかと思う。

出た杭を打つ習慣につながってしまったり、 個性から生まれるイノベーションやアイディアに対して、 そのチャンスをみすみす逃してしまったり、多様な働き方が増えていく中で、例えば家庭を大切にする考え方や、 本人がやりたいことをすると言う自由を奪ってしまう可能性があるだろう。

「自分のことを考え、同時に相手のことを考える」ということができる。

そもそも、自分のことを考えたら、自分勝手になると言う発想自体が非常に短絡的だと言うことだ。上で説明しているように、相手や周り、会社のことを尊重しながら、同時に自分のことを考えると言うことが人間にはできる。しかしながら、 日本社会全体がまるでそんな事は存在しないかのように短絡的に判断することも多いのではないかと感じる。 これは、日本と言う社会が多様性に対してまだまだ慣れていなかったり、現実に存在している多様性を見て見ぬふりをしていることが原因のような気もする。

いずれにしても、自分のことを考えながら、同時に相手や会社のことを尊重するということができるし、 現在のように、会社がその人の人生全てに対して責任を持てない以上は、各々が自分の人生に責任を持ちながら、 周りと共存していくということがまさに求められているはずだ。

エンゲージメントが自己拘束である理由

話が長くなってきたので、エンゲージメントと言う言葉には、「自己拘束」と言う強烈な訳語も存在している。 この言葉を引用しながら少し話をまとめていく。

共同体感覚:人間は一人では生きていけない

主体的、つまり自分の人生に責任を持つと言う事は大切でありながら、一方で人間と言うのは社会的な動物であり1人で生きていく事は文字通り無理である。 例えば、朝起きて、ご飯を食べ、コンビニにより、会社に到着をする。会社では自分の与えられた仕事をする。それを繰り返すだけで自分には給料が入り、 命に対する不安を感じることなく生きていくことができる。これがなぜ実現できるのかを深く考えると、そこには周りの人の協力や、これまで 先輩たちが作り上げてきた便利な社会があってこそ成り立っているのである。

つまり、「人間は1人では生きていけない」 と言う表現は綺麗事でも何でもなく まさに事実である、ということをしっかり理解することだ。

これを強いて言うなら、共同体感覚と呼んでもいいと思う。 あまりにも当たり前になってしまっている周りの環境に甘え、この共同体感覚を持たないが故に、自分勝手な行動をしてしまう してしまう人もいるのだろう。 でもそういう人は往々にして長くは続かない。

 

価値を得るには、同時に苦労も必要:だから自己拘束である

何かしら新しいことを行い、自分が本当に幸せになりたいと思ったら、誰かと一緒にやっていかなければいけないし、誰かに苦労をかけてしまう事は必須である。 つまり、相当以上の価値を得るためには 誰かと協力をしなければいけなくて、それは同時に相手のことも考えなければいけないと言う煩わしいと 背中合わせであると言うことだ。

例えば、結婚にしても、自分が幸せになろうと思えば、同時にパートナーに対して尊敬の念を持ち、時に自分が不自由になったとしても相手のことを 優先したり、相手のために行動もしなければいけない。これがまさに、エンゲージメントと言う言葉が言っている「自己拘束」であると言うことだ。むしろ会社やパートナー、社会を含めた誰ともエンゲージメントを結んでいない人は、そうではない人に比べるとある意味自由である。(そのかわり、得られる価値にはかなりの制限がある。)

覚悟を決め、win-winの関係を目指す

主体的であり、自分のありたい姿に向けて生き生きと行動していくためには、エンゲージメントを結ぶことを避けては通れない。そのためには、覚悟を決め、 自分の選択を行い、同時にwin-winの関係を相手と紡いでいくんだということが必要になる。

(一般化するのは好きではないが)日本の社会になんとなく生きている人は、こういった感覚を持てなくなってしまっている 可能性が高いんだろうなと思う。 誰かが用意した脚本に従い、生きていることができればもちろん楽ではあるが、現代の社会においてもはやそれは実現不可能な虚構なんだと思う。

会社にとって都合の良い主体性ではなく、 自分の人生に責任を取ると言う 本当の意味での主体性を持ち、会社とのエンゲージメントを意識できる人たちが増えることを本当に願っている。

ABOUTこの記事をかいた人

平井 雅史

アトラエに2009年新卒入社。 新規事業→Greenクライアントサポート部署をまたぎ、多くの企業様の採用課題に対してアプローチをしている。 趣味はゴルフ、子育て、書道。